『あの世へ逝く力』(小林玖仁男著、幻冬舎)は、著者のショッキングな告白からスタートします。
「間質性肺炎」という進行性の難病により、早ければ2年半ほどで死に至ると宣告を受けたというのです。
つまり本書は、死の宣告以来書きつづっていた、自分の心の対話や葛藤、本音を洗いざらいまとめ、あとに続く人たちのために遺したもの。いわば、“死の前に整えたい気持ちの準備書”だといいます。
■「死んだ気になって」の真実とは
人はよく、「死んだ気になって」という表現を使ったり、思ったりするもの。しかし死ぬ身になってから、この「死んだ気」の意味が変わったと著者。
健康な人の「死んだ気になって」は、ガムシャラ、貪欲、足し算、かけ算、プラス発想。もし絶望の淵にいたとしても、死にたいと思っていたとしても、死ぬ気になったらなんでもできるという、みなぎるパワー全開のイメージだというのです。
事実、著者もこのようなプラス軸を駆け抜けてきて、つい最近まで「死んだ気」とはそういうものだと思っていたのだといいます。
ところが死ぬ人の「死んだ気になって」の真実とは、冷静沈着、引き算、マイナス発想、ロスをしない、確実性を求める総決算発想。
“なにとなにを”“なにからはじめて”確実に仕上げるかということなのだというのです。
いままでは、なんでも無限にできるような気でいたからこそ、気持ちだけ先で、後回しになることも多かったのだとか。しかし人生の集大成には(せめて熟年になったら)、死ぬ前の「死んだ気になって」の発想で、確実にやり遂げることも大切だと考えるようになったそうです。
そういう気持ちで、未来の残された時間を計算しながら仕上げていくと、ミスやロスや無駄がなくなることに。つまり効率がよくなるわけで、いままでにない新しい発見や、具現性のある答えも出るといいます。
■死ぬ前に夢や計画の多くを断捨離
そして著者は、「死ぬ前のこの境地は“買い”」だと主張しています。死ぬ人がいうのだから間違いないとも。
死の宣告を受けたことで、心の水面に大きな石を投げ込まれ、波紋が広がって一気に気持ちが沈んだといいます。
そして以後の11日間を、人生でいちばん長く感じたそうです(この11日間のことも、本書では詳細につづられています)。
でも、その期間を過ぎると、気持ちがだんだん沈静化していったのだというのです。
潜在意識のなかから、死の覚悟をつくる最適解を選択し、確実に心の波紋を沈めたということ。それは人生の価値観が一気に変わったということでもあり、その変化には驚いたそうです。
具体的には、いろいろな夢や計画の多くは断捨離をし、そうしたうえで考えたのは、「自分はなにとなにをやらなければならないのか?」「なにをやりたいのか?」「なにができるのか?」ということ。
■最後の願いは「8本」に限定した
まず、「事業」「著述業」「身内」「社会奉仕」の4つの方面でやりたいことを2つずつに絞り、順番を決めていったのだそうです。
心がけたのは、“絶対に失敗しない”こと。当然のことながら、失敗する時間がないから。確実性をもっとも重要視しなければならないため、大きな夢は描かないということです。
そして、できるだけ高い成果はあげたいと思っているとか。ただし、これから先の物差しは「生きてきた証になるかどうか」。
こうして「4方面×2つ」で願いは8本。そのなかで、さらに優先順序を決めたそうです。
いままで、つまり死を宣告される前までは、時間がいっぱいあって、なんに対してもアグレッシブで、根拠のない自信がみなぎっていて、絶対にできるという気合いで物事に取り組んできたと著者は振り返ります。
無駄もあったけれど、元気だったし、無駄は次のエネルギーにもなったというのです。
しかしこれからは、日に日にそうはいかなくなっていくわけです。
時間も体力も精神力も限られていくからこそ、もっとしたたかに、そろばんずくで考え、効率的に仕上げていかなければならないと考えているのだとか。
仕事を「片づける」は、「形づける」「価値づける」ことでありたいと思うのだそうです。
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死は誰もが避けて通れないもの。だからこそ、死と真正面から向き合う著者の言葉には強い説得力を感じます。そこにある強さを本書から感じ取れば、自分自身にとっての肥やしになるのではないでしょうか?
(文/作家、書評家・印南敦史)
【参考】
※小林玖仁男(2016)『あの世へ逝く力』幻冬舎